「注文が来」なくなったとき、わたしは書かなくなるだろうか(上野千鶴子)

クリッピングから
NHK出版 note<本がひらく>
連載「マイナーノートで」#31(上野千鶴子)
なぜ書くか?


(タイトルビジュアル撮影・筆者)


  このエッセイの担当編集者は、
  かつて、それまでわたしが触れてこなかったことを書いてほしい、
  と無理難題をふっかけてきた。
  自分が読みたいものを、と。


  こんな在庫がありますが……
  とありものを提示したら、却下された。
  そうしてできたのが、『ひとりの午後に』
  (NHK出版、2010年/文春文庫、2013年)である。


  他人には見せたくない宝物、
  とはいっても海辺で拾ってきた貝殻や、
  ふと見つけたきれいな色の小石、
  片方だけ残って捨てられないイヤリングなど、
  自分以外のひとにはなんの価値もない思い出の品々なのだけれど、
  それを容れる小さな宝石箱のような、
  わたしにとっては特別な本になった。
  そしてそれを愛してくださる読者の方たちがいた。
  (略)

 
  大事にしているが、他人には見せたくないものがある。
  「見せると減る」と言ったのは、
  作家の富岡多惠子さんだった。
  そのひとも逝ってしまった。
  一緒に旅をしたときの思い出がひとつひとつよみがえる。
  (略)

 
  初めて三大紙のひとつにエッセイを連載したとき、
  さる方から、あなたにエッセイは書けない、やめておきなさい、
  と忠告されたことがある。
  わたしはエッセイの書き手になれただろうか? 
  その連載は『ミッドナイト・コール』
  (朝日新聞社、1990年/朝日文庫、1993年)という本になった。
  ここでもわたしのエッセイは、夜と結びついている。
  (略)


  何か言うたび、書くたびに、
  たくさんの批判やバッシングを受けてきた。
  だが、いつも思うのだ。
  何を言っても、何を書いても、
  かならず正解と誤解の両方が生まれる。


  正解8割、誤解が2割なら、
  いや、たとえ正解6割、誤解が4割でも
  引き算して正解の方が多ければそれでいいではないか、と。
  この割合が逆転してもかまわない。
  たったひとりでも届けたい相手に届けば、と。
  誤解や批判を怖れていては、口を噤(つぐ)むしかない。

 
  幸いなことにわたしにはいまだに「注文が来」ている。
  いつまで続くだろうか。
  「注文が来」なくなったとき、わたしは書かなくなるだろうか。
  それともブログやYouTubeで発信し続けるだろうか。
  誰にも知られずに、思い出という大切な宝物を抱えて、
  黙して過ごすのもよいかもしれない。


  さんざんことばということばを酷使して使い散らしたあとに、
  富岡さんの言ったせりふが残る。


  「ひとは何のために書くか。
   書かずにすませるようになるためよ」

 
  そのとおりに、かのひとは逝った。