クリッピングから
朝日新聞2021年3月27日朝刊別刷be
小池真理子「月夜の森の梟(ふくろう)」第39回
隠れた代表作 伝えるのは使命
2020年1月30日、69歳で亡くなった
作家であり、夫であった藤田宜永(よしなが)との日々を
同じく作家であり、妻である小池真理子が綴る連載エッセー。
今週は藤田の「隠れた代表作」と小池が評価する小説の
文庫再復刊のニュースを読者に知らせる。
(略)
夫は五十代になってから、自分がどんな思春期を送ったか、
作家として書き残したいという衝動にかられ、自伝的長編小説を書いた。
どこまでも逃げ続けたいと思うしかなかった母親との関係を、
自身の高校生活をふくめて赤裸々に描いてみせた。
歌舞伎町のゴーゴークラブに出入りし、
酒と煙草(たばこ)、ナンパに明け暮れ、
あげく同郷の一つ年上の女性と半同棲(どうせい)。
駅のトイレでガクランに着替えて登校する日々を正直に綴(つづ)ったものだが、
単行本で出版された時も、後に文庫化された時も、
読者や批評家たちの間で取り上げられることなく終わった。
息を引き取る一週間前、自宅のベッドの中で彼は、
その作品を読者に正しく伝えられなかったことを深く嘆いた。
母親を憎む、という心理が人生にどんな影響を及ぼすか、
理解されずに終わったことを無念がった。
憎しみの裏には必ず「愛されたい」という願望がある。
うまく愛情を交わすことができなかった母子、
長じて作家になった息子の、破滅的な高校時代を綴った作品が、
このたび版元を変えて再び文庫化される。
巻末には私が解説エッセーを書いた。
同じ作家として生き、そばで見続けてきた私の、
それはささやかな使命だった。
自伝小説のタイトルは『愛さずにはいられない』。
あの時代を生きた者なら誰もが知っている、
レイ・チャールズの大ヒットナンバーである。
(作家)
- 作者:藤田 宜永
- 発売日: 2021/03/27
- メディア: 文庫
- アーティスト:レイ・チャールズ
- メディア: LP Record